芸者の母にあこがれて
大正から昭和にかけての蓬莱町(現在の宝来町)は、電車通りをはさんで料理屋や見番、人力車屋、質屋、下駄屋などが20件くらいが立ち並ぶ華やかな街でした。
夏は三味線の音が聞こえ、夜ともなれば日本髪で褄をとって歩く芸者さんの姿も見られ花柳界の活気に溢れていたそうです。
尾形京子は大正10年生まれ。母マスは鶴千代という芸者でしたが、京子は母の芸者姿に憧れて自らも芸者になる決心をします。
小学校の時すでに踊りや義太夫を習っていた京子は、昭和8年から小樽の海陽亭で本格的に修行をはじめました。
明治時代に建てられた海陽亭は、160畳や70畳の大宴会場をもつ老舗の料亭で住み込みの芸者も20人ほどいました。
日露戦争時代には軍部の会議にも使われたといわれています。
そこで京子は、踊りや長唄、三味線の稽古などの修行を積み、昭和10年には半玉の見習いでお座敷にでるようになりました。